コロナ太りがひどいので、ダイエットを頑張ることにしました
緊急事態宣言がでて、もう1ヶ月が経とうとしています。
当初の予定ではGW明けには自粛期間が終わって、やっとこれまで通りの生活をおくれるはずでしたが、なんだか延長しそうな感じがしていますね。
僕は、自粛期間中
- 徒歩通勤がなくなって運動量が劇的に減ったこと
- 家で暇だからお菓子をいつもより食べてしまったこと
- ウーバーイーツにハマり、高カロリーのものを大量に摂取してしまったこと
などが重なり2キロほど体重が増えてしまいました。
もともとぽっちゃりしていたので、痩せたいなーと思っていた矢先にこんな感じになってしまってめちゃくちゃ残念な気持ちになっています。
なので、といったらそれだけではないんですが、ダイエットサイトを開設してみました。
実際にやってみたダイエット手法や、ダイエットレシピ、ダイエット系の宅食やサプリメントのレビューをやっていくサイトになりそうです。
もちろんサイトアフィリエイトの一貫でもあるんですが、まじでこのサイトを通して10キロくらい痩せれたらな、と思っています。
一番太っていた時よりかは、10キロくらい痩せたんだけど、大学時代と比べると10キロ重いままなので、まじで頑張りたいところ。
とりあえずは、コロナ太り2キロを落とすために、ウォーキングとジョギングに勤しんでいます。
はよ痩せたい。
現実原則に縛られて
生きていくには好きなことをするのが大事だ、って話はもうなんども書いた気がしますが、僕たちはそれ以前に現実的な制約にしばれています。
それは食べなければ生きていけないということであったり、食べるにはお金が必要ということであったり、お金を手にするには働かなければいけなかったり、働くには他者に気を使わないといけなかったり、我慢しないといけないことがあったりということです。
したいことをやれば良いと言っても、食べたいだけ食べれば太りやすくなり健康が害されるかもしれないから、ある程度節制しなければいけないし、恋人が欲しければ身なりをきちんとし、出会いの場に顔を出し、好かれるように努力しないといけないです。
こういう現実的な原則を逸脱すると、他人ひいては社会から反発を受けますし、そもそもの人間の設計としていきていけませんし、望んだことは達成されません。
なので、したいことをするためにも現実原則を考慮することが大事です。
ですが、世の中には現実原則に見えて、ほんとうはただの幻想だったりするものがあります。
上司に残業しろとプレッシャーをかけられても、社内規則的に問題がなければ罰則を与えることは本来的にはできないでしょうし、そもそもの社内規則が日本国の法律を逸脱していればその規則に正当性はありません。
僕たちはたくさんの暗示の中に生きているけど、どの暗示にかかるべきなのか、どんな妄想のなかで生きていきたいのか自分で選ぶ必要があるのかもしれませんね。
なので、完全に好きなことだけで生きることは現実原則的に不可能ですが、好きなことファーストで生きることは可能なのかもしれないです。
「もうダメなんて思うから、ほんとにダメになるって。すべては暗示だって。人間は暗示の織物(テクスチュア)なんだって。それが俺たちの考え方なんだって。」
「自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。そいつは暗示のレールの上を一直線に走っていくだけさ。」
「だから」
「…暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある」いとうせいこう 解体屋外伝より
すべてはただの暗示です。
社会なんて全て幻想、そこにあるのはただの人間であり、人間の集まりです。
暗示の外にでて、自分の好きなことを探しましょう。
最近作ったサイト
コロナ自粛期間中にオススメ。うまい肉を食ってやっていこう。その他2つ。
どうやらあんまり適当に書くとインデックスされないみたいです。
なので、ちゃんと書きます。
僕はA8.netで、新着広告を中心に広告をみて行っているんですが、下記のサイトは面白かったので寝かせてみることにしました。
1、児島黒毛和牛こだわりのメス 毎日に、いいにくを。
2、ミライスピーカー
3、寮付き求人.com
まとめ
好きなこと、楽しいことは何か
自分の好きなこと、自分が心から楽しいと思えることをしよう
という風潮が強くなっていますね。
僕自身も、好きなこと・楽しいことでなければ真剣に取り組めないし、真剣に取り組めなければそれで生きていけない論者の一人です。
好きなこと・楽しいことだからこそ切実な関心をいだけますし、切実な関心があるからこそ時間や労力や資金を惜しみなくつぎ込むことができ、結果として武器(=社会を生き抜くための専門性)を手にすることができると思います。
ですが、好きなこと・楽しいことを見つけるのってなんだか難しい、って思いませんか?
僕自身は、自分の好きなことや楽しいことがまるでわからなくなってしまっています。
ジプシーです。
「好き」って言葉にはたくさんのレイヤーがあって、どちらかと言うとこれが良いっていう好きもあれば、これがないと死んでしまうという好きもあるし、人類としての人間としての制度設計としての好き(欲求)もあるし、他者に誘導された好きもあるし、そう言うのに全く当てはまらない好きもありますよね。
美味しいものが好き、寝るのが好き、セックスが好き、異性が好き、体を動かすのが好きなどは、人間の制度設計としての「好き」であり、脳内物質の放出と同じだと思います。
人間の気分は身体の状況に連動しており、ドーパミンやセルトリンが出れば楽しい、オキトキシンが出れば愛おしい、癒されるとか、かなり化学的で生物学的な反応のように思います。
ですが、絵を書くのが好き、音楽が好き、小説が好き、という文化に対しての好きは、制度設計の外のようにあるように思います。
なんというかバグ?というか裏技?みたいな感じで、本来は別に好きにならなくてもよいものでも好き、というのはなんだかその人の個性のように思えますね。
人間の制度設計としての好きも、それを探求し続けるレベルの人になると、明らかに制度的な欲求を超えた執着をもっているように思う。
グルメのためなら日本中、世界中を飛び回る人とか、最高のラーメンを作るために10年以上研鑽をした人とか、運動の中でも走り幅跳びだけが好きで、走り幅跳びならいくらでもしたい人とか、女性が好きで女性を探求したいとか言いながらナンパし続けている人とか。
村上龍は「無趣味のすすめ」という本の中で、「自分にとって小説は別に好きとかではないが、なくては生きていけないもの」「とても思考力を使うし、大変だが、書き終えたあとは不思議と充実感がある」「何かを本当に好きになったらそれは自然と仕事になる」みたいなことを書いていました。
「好きを仕事に」という好きは、そういう一種の執着のようなものだと思います。
うちの父親は50代なんですが、すこし早めに会社をやめて退職金を運用して生活しています。
そして、空いた時間を使って1日8時間以上、毎日絵を描いてすごしているそうです。
父親曰く「自分には別に社会の居場所なんて家族だけでよかった。誰とも会わないで、毎日絵を書いているのがすごく楽しいし、幸せ。他人にはわからないかもしれないけど、1枚1枚新しい工夫があって、どんどん自分が上手くなっていくのを感じる。死ぬまでに究極の絵を描きたい」とのことでした。
父は自分が愛を注ぐべき対象を見つけたのでしょう。
僕は自分の好きなものがわからなかったのでどうやってたどり着いたか聞いてみたら、「自分も仕事をやめてイラストレーターになりたいって思ったことがあったけど、その度に『そんなんでは食っていけない』と冷静になる自分がいて踏み出せなかった。たまたまの巡り合わせで絵だけをかける生活になって『あぁ、やっぱり自分は絵を描きたかったんだな』と思い知った感じ。『やっぱり』って感覚が大事かもね。」と言っていました。
Fateで一躍有名になったなすきのこさんの小説で「空の境界」というのがあります。
空の境界の世界観では、「起源」というものがあります。
「そのモノの原初の方向性。そのモノがそのモノである事をたらしめるもの。根源の渦から生じた混沌衝動を魔術では起源と呼ぶ。
この世の全てのカタチあるものは生まれた時から何かしらの『起源』があり、その起源にそって行動するとされている。」「例を挙げると『剣』という起源の持ち主は無意識に剣に対して強い執着心を持つようになり、刃物を集めて見惚れるようになったりする。
また『禁忌』という起源の持ち主は人間だろうと獣だろうとその種の道徳と定められたモノから外れた行為を好むようになる。つまり、起源とはその持ち主の「本能」とも言えるもので「そうであるよう」仕組まれている絶対命令である。」
アニヲタwikiより
もちろん小説ですしファンタジーなので現実に「起源」があるとは言いませんが、そういう魂の形みたいなものはあるのかもしれないと思っています。
産まれながらなのか、それとも生きていく過程で生じた偏りなのか、人間の制度設計を超えた歪みが「好き」という感情なのではないでしょうか。
生きていく過程で身につけた歪みは産まれ育った環境によって偶然引き起こされたものですが、「そうならざるを得なかった」というような偶然こそ運命と呼ぶべきものかもしれませんし、運命として身につけた歪みは受け入れて生きていくしかないと思います。
色々な人が、色々な媒体で語っているように、好きを大事にしなければ誇らしく生きていくことができない時代はもうきているのだと思います。
なので、僕たちは、自らの歪みに自覚的になり、好きを見つけなければいけない。
とはいってもどうやれば好きが見つかるのか、その方法はわかりませんが、父のいうように『やっぱり』という感覚を大事にしてみると良いかもしれません。
となると、好きは発見するものではなく、再発見するものなのかもしれませんね。
最近作ったサイト
愛の時代
実業家で沢山自己啓発本を書いてることで有名な斎藤一人さんは「これからは魂の時代だ」と言ってた気がしますが、「これからは愛の時代」なんじゃないかな?と思います。
どこかの記事で書いたことがあると思うんだけど、僕は「誇らしく生きていくためには武器が必要で、武器を身につけるには愛を注ぐべき」だと思ってます。
「武器」というのは専門性や技能のことで、「愛」というのは必要性や興味から生じる切実な関心のことです。
昔大学のマーケティングの講義で、「交渉力を手にするには「1+α」が必要」「これから社会に出る君たちはまず1を手に入れなさい」と説かれました。
1というのはまさに「武器」のことで、武器に+αすることでより差別化を図れ、というアドバイスでした。含蓄がある。
僕は武器をまだ手に入れれてない気がします。
そういうわけで武器を手にするためにも切実な関心=愛がとても重要だと思う。
でもそれだけじゃなくて。
普通「愛」という言葉は、「恋愛」や「性愛」といったものを連想させますよね。
こういう「愛」も、とても重要になってくると思う。
宮台真司さんの「絶望の時代の希望の恋愛学」という本に書かれていたんすが、これからの時代に必要なのは「ホームベースを作る力」だといいます。
ホームベースは、帰れる場所、安心できる場所のこと。安全基地なんて呼ばれ方もしますね。
家族や恋人、友人関係など、利害の外にあるけど助け合えるネットワークを構築出来なければ、孤独になり生きていけないということ。
コロナの影響で、新しいネットワークの構築が難しくなってきたことで、明確化してきた部分でもありますね。
宮台さんいわく、ホームベースを作るには無償の愛というか、本心からのGiverで有る必要があります。
「善きサマリア人」の話が書いてあったんですが、困ってる人を見たときに見返りを求めず助けることのできる人が、結果的にホームベースを構築していく。
ですがこの話を聞いて「よし!善きサマリア人になろう!」なんて言うのは欺瞞で、ホームベースが欲しいという見返りを求めているからそれではだめだ、という話も書いてました。
またホームベースを作るには、自ら人間関係に踏み出し、さらに踏み込んでいくことが必要です。
人間関係に踏み出し、他人に踏み込み、心からの関心を相手に注ぐ、それを大人になって練習できるのは恋愛くらいしかない、だから恋愛しようぜ!って本でしたね、たしか。
愛が大事です。愛を貰うことが大事なのではなく、愛を注ぐことが大事です。
だから「愛の時代だ」と思う。
宮台さんの言うように「ホームベースがほしいから」でGiveしても弱いように、「武器がほしいから」むりやり愛を捻出してもだめなんだと思います。
そういう見返りを求める気持ちがあると、対象にたいして「これはメリットがあるか?」「リスクリワードのバランスは正しいか?」なんて計算が無意識に立っちゃいますよね。
心から愛するものや、愛する相手を見つけたら、大事にしていきましょう。
最近作ったサイト
全ては二次創作
つらつらと、徒然なるままに文章を書いていますが、こういう思想の源泉はどこなのかな?と考えてみると他人のブログや本で読んだことだったりします。
「なるほど、そうだよな」と思えた内容は自分の思想の一部として、「なんでだよ!違うでしょ!」とツッコミをいれたくなるものは思考のきっかけとして、常に取り込み続けているのでしょうね。
意識的なものもあるし、無意識的なものもあるのですが、ぼんやり書くだけなら幾らでも書けそうなのでこういうの好きなんだろうな。
しかし僕に限らず、世の中の殆どの書物は二次創作のように思われます。
漫画や小説なんて他の作品の影響を受けてないものの方が少ないだろうし、ビジネス書や自己啓発本も何かの擦り直しばかりです。
じゃあ学問的な論文は?というと、それらも過去の研究の続きかバリエーションか、反論であるものが殆どではないでしょうか。(あまり読んだことないので憶測だけど)
まぁ現代人だけで70億人?だっけ?そんだけいますし、なんかググってみるとこれまで生きてた人類は総計1080億人くらいになるらしいですよ。
桁が多すぎてよく分からないですが、それだけの人間が数十年生きて、工夫して、考えて、を繰り返してるのでそりゃ大分出尽くしてるよなと思います。
僕は好きで本や漫画に親しんでるので、毛並みが違うなってやつは割と避けちゃうので、かなり考え方が偏ってると思います。
知り合いに、毎週本を読んではTwitterに上げてる人とかいますが、ああいうのは真似できない。義務になると辛そう。
ただ学術的な文章を書く人は、自説を強化するものだけでなく反論もあえて読むでしょうし、意識的に本を読み思考を深めていく習慣を持ってる人は強いなぁと思います。
いつかは僕もするのかな、書評専門ブログとかしてみるかな?とか思います。
最近作ったサイト
愛を注ぐものをみつける
※下書き放出
「誇らしく生きるためには武器が必要」みたいなことを書いたことがある気がしますが、どうすればそんな武器が手に入るのでしょうか?
それには、何かに時間と労力を注ぐ必要があります。
少し前まではお金になる物事は限られていたように思いますが、インターネットの発達は土地と時間の制約を変えましたし、ネット上で多様化したウェブサービスはCtoCのビジネスのインフラを整えました。
あとは、何かを欲しい人とそれを提供できる人がマッチングすれば、それだけでビジネスが発生しうる状況ですね。
結果として現代は、仕事の多様化や趣味の仕事化が顕著です。
なのでどんな専門性であっても何かを身につければ、それの専門家として生きる道が開けます。
ホリエモンとかは「あり金は全部使え」なんて本も書いてますし、好きなものに時間と労力と資金を惜しみなく突っ込めば、「好きなことで生きていく」が成り立ちやすくなっているんですね。
とはいっても、いまの時点で「好きなことで生きていく」がスタンダードになっているわけではありません。
ビジネスをするには需要が必要ですし、需要が多様化した(というより多様だった需要にアクセス可能になった)とはいえ、生活するのに十分なお金を稼げる分野はまだ限られるでしょう。
いつかは生活コスト自体が下がって、お金が稼げなくても生きていけるようになるかもしれませんが、それはまだでしょうね。
となってくると、その都度その都度で需要があり興味の持てるものに時間と労力と資金を注いで、いろいろな専門性を乗り換えていかないといけなくなるのかも。
LIFESHIFTで書いてあったみたいに、100年生きて、生涯10職業みたいなのも現実的なプランなのかもですね。
何はともあれ専門性を身につけるのは簡単なことではありません。
時間と労力と資金を投下しても、身につかないこともあるでしょう。
何かを身につけるには、切実な必要性か、裡から湧いてくる情熱が必要です。
本当の関心を向けなければ何かを身につけることはできません。
これから本当に生きていくために必要なのは、愛かもしれない。
そんなことを思います。
最近作ったサイト