暗示の外に出ろって話
いとうせいこうさんの「解体屋外伝」という小説があります。
僕はこの小説がとても好きです。
僕たち人間は暗示の織物で、暗示のレールに沿って行動し、生きていく。
自ら「もうだめだ!」なんて思い込んでしまったら本当にダメになってしまう。
自分で、自分に暗示の罠をかけてしまったらおしまいだ。
だから、暗示の外に出るんだ。俺たちには未来がある。
と、「暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある」という暗示を繰り返し唱えます。
僕たちは世界に蔓延する暗示の中にうかんでいて、暗示がなければ外界を認識できず、思考もままならない存在です。
人間は考える葦だなんていった人もいましたけど、僕たちは自発的に考えている訳ではなく、自分の中に刻まれた暗示にしたがって、刺激に反応しているだけなんだと思います。
もちろんこの思考も暗示で、暗示のない世界には狂気しか広がっていない。
完全に暗示(=言語)を失って仕舞えば、発狂し、生存することすらできなくなるでしょう。
宗教も文化も、時間も国境も、暦も言語も全て誰かが勝手に決めて、大多数の人が採用しているからという理由で使われているだけの暗示にすぎません。
そこには論理的な根拠なんてなくて、ただ大多数が支持しているから、というだけで使われているにすぎないのだと思います。
僕たちは、暗示に依存し、暗示でできた土台の上でものを考え、発言をし、創作を行い、新たな暗示を生み出し、それが多くの人に受け入れられれば土台の一部となり、無自覚に暗示を生み出す側に周り、暗示なしでは生きていけない。
だからこそ、僕たちは、自分たちが乗っかる暗示に自覚的になるべきなんだと思います。
暗示の外には別の暗示が待っている。
全ての暗示を拒絶すれば、そこに待っているのは狂気。
でも僕たちの生きる世界には、無数の暗示が広がっていて、別の暗示(物語)から別の暗示(物語)に乗りうつることができるはずなんです。
肉体的な限界や、認知的な限界があるから、無数に暗示ホッピングを続けるわけにはいかないでしょう。
ただ、最初に与えられた暗示だけを盲信する人生なんて、僕はいやだなと思ってしまう。
だからこそ、「暗示の外に出ろ、俺たちには未来がある」という暗示を自らにかけ続け、自由を求める終わりのない旅に出たいなんていう欲望を感じているのだろうと思う。
自由意志なんてないと思いながら、自由を信じたいという愚かな思想だと思う。
あぁただ早く死にたいと思うけれど、死ぬのは怖すぎて、結局何もできないなんて思うけれど、早く死にたいのならさっさとやりたいことを全部やって、やりきって死ねばきっと満足して死ねるのだろうと思って、日々自由なんて言葉を求めて呪いながら、もっと何も考えずにすむような存在でありたかったなんて夢物語もいいところでさっさと終わりにしたいけれど、死ぬに死ねないからお酒を飲んで頭を曖昧にしてなんとか生きている今日この頃。
支離滅裂な自分自身で、もう社会なんて全部放棄してしまって、誰とも関わらずただお酒と漫画と美味しいものを味わって生きていきたいなんて思うけれど、長らく鍛えられた真面目ちゃんな自分は仕事をサボることも、やめることもできないまま、ただただ石を踏みにじられる屈辱を感じ、その屈辱すら受け取ってもらえぬ惨めさを憎しみに変え、関わる人を呪い、社会を憂い、自らの存在を儚んで、ただただ無意味に言葉を羅列する訳です。
きっと明日になってこんな文章を読み返せば、恥ずかしくって赤面して、すぐに削除するんだと思うけど、あえてこのまま後悔するのもありかなって遊び心が芽生える。
こんな遊び心があってたまるかって話だけど。
いきていくには酔いが必要で、遊びが必要で、祭りが必要だと最近強く感じます。
日常という穢れの場において、憎しみを感じ、世界を呪い、ただ天国を欲する心は、酔いによって遊びによって祭りによって解放され癒され浄化されるのが本当なんでしょう。
でも、親の目と先生の目を気にし続けて、それを暗示として内面化してしまって、自縄自縛にとらわれた人間には、遊ぶというのが存外難しく、ただ酔いを求めて彷徨うだけでした。
だから、僕は暗示の外に出たい。未来を信じたいと思うのでしょう。
未来がある。という暗示をかけてしまっているから僕はまだ死ねない。絶対に死なない。ふざけるな。
暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。
暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。
何にも考えないのが悟りだというのなら、さっさと悟ってこの苦しみから解放。
暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。